フランク・ダラボン監督作品「ミスト」を見た。
平穏な街に、ある日何の前触れもなくおっかない怪物クンが襲いかかってくるという設定は、スピルバーグの「宇宙戦争」と似ている。
しかし、「宇宙戦争」にはがっかりさせられた。
怪物クンにやっつけられることなく、うまいこと逃げ延びてゲームオーバーという、今どきのゲーム以上のものは何も無い、アレ_(・・?..)?アレェには拍子抜けだった。
ところが本作「ミスト」。
おっかない怪物クンの、おっかなさの演出もハンパじゃなかった。
この点だけとっても「宇宙戦争」と遜色はない。
しかし、それ以上におっかなかったのは、恐怖に支配され狂気へと暴走する人々のあまりにもリアルな描き方。
人の情けがわからない、すなわち"EQ"が著しく低い、できないビジネスマンの私にとって、優れた映画監督の演技の演出というのは大きな謎のひとつだ。
イケてない映画監督というのは(僭越な言い方かもしれないケド)、悲しい状況では泣く、おっかない状況では逃げる、といったように人間の状況に対する反応を、一般的な類型におとしこみ、その枠内の演技を役者がカンドー的に演じれば、良しとする傾向がある。
このパターンがあまりにもうまくいった場合を、一頃流行った言葉を借りれば「クサイ演技」ということになる。
ところが一部の優れた映画監督、現役作家では例えば日本人だと犬童一心監督、そして「ミスト」のダラボン監督などは、ここが違う。
人それぞれのたどって来た人生や、その時の気分、性格に応じて、たとえ同じ悲しい状況であっても泣く人もいれば、泣かない人だっている。
また、泣く人に限って考えても、やはり人それぞれの履歴に応じて、泣く時に動く顔の筋肉の部位も異なってくるんじゃなかろうか。
"一部の優れた映画監督"は、特に私みたいな者にとってみたら奇跡に近いような深い深~い人間心理への洞察力によって、上みたいな複雑なパターン認識をしながら、鳥肌が立つような金無垢の表情を役者から抽出してくれる。
一体全体、どうしてこんな神技みたいなことができるんだろうか。
さて、話を映画に戻そう。
「宇宙戦争」が、誠に残念ながら『おっかない状況=人は逃げる』という類型に終始していた。
それに対し本作は、登場人物ひとりひとりの知的レベル、信仰、家族構成、性別、年齢に応じて異なる反応を示す。
危機に際してリーダーシップを発揮する者、家族の安寧第一の者、独善に陥りカルト宗教を立教する者(・・;)、発狂する者、そして逃げる者などだ。
群集の精神の均衡を維持出来る者と、破綻を来たす者の構成比率も後者が圧倒的多数となり、実にリアルだ。
そして、それら緻密なパターン認識によって区分けされた人々の凄い表情の怖さ。
そしてもう一点、この作品が他の多くの"フツーの映画"と圧倒的に異なるところ。
それはあまりにも悲しすぎ厳しすぎる結末だ。
観客が最も共感を覚えるであろう登場人物の選択の結果が、最も優れた結果である、という興行上の約束事。
ひらたく言えば主人公にはハッピーエンド、または敗北の美が約束されている。
この約束を本作は真っ向から拒否。
最も共感を寄せていた主人公の選択は最も悲惨な結果をもたらし、しかもそこには敗北の美すらない。
これ以上はネタバレになりかねないので、後は見てのお楽しみ(または、見てのお苦しみ?)。
30年以上映画を見続けてきた中で、「ミスト」みたいな結末ははじめての体験。
そして、願わくば最後にしたい体験だった。

