見終わって思ったのは、淀川長治さんはこの作品を大変お気に召されるんじゃないか、ということだ。
淀川さんといえば、何曜日か失念してしまったが、テレビの?曜洋画劇場の名司会者だった。
テレビで放映する映画といったら、あたりさわりのない映画になってしまう。
だから、淀川さん=あたりさわりのないファミリー映画という理解のされかたをされているが、実は淀川さんは、その手合いの映画を「田舎者が見るもの」と切って捨てておられた。
洗練された大人の映画を、淀川さんはこよなく愛されていたのだ。
また淀川さんは、磨きぬかれた審美眼を持つ数奇者が、古美術品の美を見抜くような眼をもって、映画をご覧になっていた。
そして、淀川さんの映画への最大の賛辞はズバリ『美術』という言葉だった。
小林秀雄氏が、『絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。』という、有名な言葉を残されているが、淀川さんはまさに映画を眼で楽しんだ、数少ない映画評論家だった。

さて、今どきの十代の恋愛事情は知らないが、我々「オバケのQ太郎」テレビ放映開始年前後に生まれた世代の十代の頃の恋愛は、甘酸っぱい「小梅」の味だ。
そんなオバQ世代の小梅ちゃんたち、もし今恋愛したらどうなるか。
大人の恋愛なんて私の乏しい経験(*^.^*)から言って、エゴイズムとエゴイズムの摩擦、残酷さと紙一重だ。
映画「ランジェ公爵夫人」で、女は恋愛をゲームだと思った。
しかし、恋愛は恋愛でしかなかった男は、"ゲーム"を刃(やいば)と勘違いした。
刃には刃を。
男の女への慕情が、猛烈な憎しみへと転ずるその怖さ。
残酷さ。
リヴェット監督は、ケレン味という調味料を一切使わず、残酷という素材の持ち味を最大限に生かして大人の恋愛を料理した。
小細工の一切ないその料理を、数寄者を唸らせるような器に盛った。
器は、役者と映像、そして美術。
淀川さんがこよなく愛した"洗練された大人の映画"とは、素材と料理の腕だけで勝負をかけるような、余計な飾りの一切ないシンプルで美しい映画だった。
淀川さんは、本作品の残酷の毒を楽しまれたに違いない。
『怖いですネー、恐ろしいですネー』

さて、マーケティングを恋愛に見立てたビジネス書が時折登場するが、映画「ランジェ公爵夫人」の恋愛を、よくありがちなビジネス書とは反対にマーケティングに見立てるとどうなるか。
この映画の場合、女は商品であり商人。男は顧客。
女は品薄状態(つれない態度)を創ることによって、商品のプレミアム感を演出した。
しかし、男はプレミアム感を理解できないどころか、不便さにキレてしまい不買運動を起こした。
ついには、商人は顧客を失い、顧客は商品を失い、ともに破滅した。
同じ悲劇でも、それが恋愛の上で起こると悲壮の美があるけれど、商売の上で起こると、これってかなりマヌケかも。(・・;)

